ヨガ哲学の内容について、私なりにご紹介しております。
(ヨガスートラについては、こちら。https://www.en-yoga-2018.com/2019/01/08/honest/)
(ヨガの8支則については、こちら。https://www.en-yoga-2018.com/2019/01/09/ashtanga/)
(1つ目、非暴力アヒムサーについては、こちら。https://www.en-yoga-2018.com/2019/01/12/ahimsa/)
(2つ目、正直サティヤについては、こちら。https://www.en-yoga-2018.com/2019/01/19/satya/)
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(4つ目、禁欲ブラフマチャリヤについては、こちら。https://www.en-yoga-2018.com/2019/03/24/brahmacharya/)
ヤマ(してはいけないこと)の5つ目、最後が、アパリグラハ(不貪)です。
私が、ヤマについて学んだ時に、ブラフマチャリヤとアパリグラハの違いがずっと曖昧で、
性欲についてはブラフマチャリヤかなという認識でした。
アスティヤ(不盗)から、ブラフマチャリヤとアパリグラハの投稿に間が空いたのも私があまり分かっていなかったから。
でも、ヨガジャーナル日本版(vol.64)を読んでいて心に突き刺さったので、
本当はこんなこと書くのは恥ずかしいのですが、書きたいと思います。
不貪は、ヨーガ・スートラでは、こう書いてあります。
2−39 不貪を確立した人は、過去と未来の出生に関する知識を得る。
不貪は、何事に対してももっともっとと欲しがらず、執着しないという意味です。
本当に必要なものだけ見つけて手に入れるということです。
今回、私が心に刺さったヨガジャーナル日本版は、他の文献と少しちがう解釈をしていたのでご紹介したいと思います。
良かったら、読んでみてくださいね。
「貪る」と聞くとモノに対して欲張るイメージが強いかもしれませんが、
環境、考え、他人に「求めすぎる状態」のことも貪りのひとつだとヨガ哲学では考えています。
必要なもの以上に求めすぎる行為がアパリグラハに反すると理解したとき、
私たちは無自覚の中で他人に自分自身の自己主張を撒き散らし、強要していないか振り返る必要があります。
必要以上に求めすぎた結果としてどんどん自分の視野も狭くなりその狭さからさらに人に強要してしまう、
そうした悪循環に陥る前に、今他人に対して「間違っている」と執着している根本は何なのか見つめる必要があるかもしれません。
➖ヨガジャーナル日本版 vol.64 P146➖
先日、旦那さんとけんかをしました。
私が、家事をしつつ、子育てをしつつ、会社の仕事をしつつ、ヨガのレッスンをして忙しいのに、
全然分かってくれていないと。
彼は、飲み会や出張など気楽に予定を入れられるけれど、私が予定を入れるときは、
まず、子どもの予定を確認し、子ども達のご飯を用意し、家事をして出かけるのに(怒)と。
もしくは、子どもを連れて行くのにと。
彼は、留守番させて子ども達のごはんはコンビニでいいじゃないかと言いますが、
私は出来るだけ手作りのものを食べさせたいし、夜に留守番させるのはヨガのレッスンの時だけにしたい。
母親はなるべく子どもの側にいた方がいいい。
そう思っています。
これも、私が必要以上に自分の考えを押し付けていた「貪る」行為だったのだと気づき、
胸が痛くなりました。
彼にコンビニのご飯を食べさせたり、カップラーメンにしているのはどれくらいの頻度か?と聞かれ、
多くて1週間に1度と言うと、それくらいならいいじゃないかと言われ、イラッとし(笑)。
私の中の「良いハハオヤ像」が自分を苦しめていることに気づくのです。
気づかないうちに撒き散らしている「〜するべき」という自己主張、これが私のアパリグラハです。
心して生きたいと思うのです🙏
だから、ヨガは生き方だと思うのです。
反省と共にナマステ🙏
これにて、ヤマ(してはいけないこと)終了です。
次は、二ヤマ(した方がいいこと)です。
不定期に更新していきたいと思います。