長崎で平和を思う


 今日は、長崎にとって大切な日でした。
 
 私は、自宅でヨガの練習した後、なんだか平和公園へ行きたくなり、11時2分に黙祷をしに行ってきました。
 いつもなら交通規制してるし、混雑を避けるため(各国要人が来訪されるのでとても混む)、行かないのですが何だか引き寄せられたような気がしたのです。

 辺りは人でいっぱいで、反戦のビラや横断幕を掲げた人達。
 長崎市内に住んで6年くらい経つのに初めてこの日のこの時間に行って目の当たりにしました。

74年前のこの日のこの時間に焼け野原になってたくさんの人が達が亡くなって、苦しんだかと思うと涙が止まらなくなり、その場を後にしました。

人間のしたことは、人間の手で止めることができる。

これは、「神のみわざ」ではない。
キリスト教では、神のみわざに対しては、人間は受け止め、耐えしのぶ教えがあるそうです。
でも、これは、神のみわざではない。
人間のしたことであるから、受け止める必要がない。
無くすように努力すべきだと先日テレビで見ました。

私は、どちらかというと仏教的な因果論を考えています。
すべてのことには意味があって、自分の身に起きたことは自分の行いが起因している。
だから、できる限り、自分に正直で自分が良いと思うことを行いたいとおもっています。

このことに関しては、戦前の日本の行いもおかしいし、アメリカの行いもおかしい。
世界中がおかしかったように思えます。
それを教訓として、二度としない。

長崎がこの犠牲の最後であって欲しいと被爆者の方がおっしゃっていた通りだと思うのです。

一番怖いのは、「他人事」として捉えること。
私は、長崎に来て住んで初めて、きちんと考えました。
関東に住んでいる時は「他人事」でした。
大変だったよね〜って。
国内でもそんな感じ。

ましてや、海外では?
日本人は、「水に流す」ことが美徳とされます。
あえて、未来を考えて過去の嫌なことを蒸し返さない。
でも、本当にそれで良いのかな?
と思わされた日でした。

そして、多少のことがあっても「生きているだけ丸もうけ」と思おう💪
と思えた日でした。

長文お読みいただき、ありがとうございました🙏
ナマステ🙏